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俳優名鑑

水谷 八重子(みずたに やえこ)

こぼれ話

変声期を迎え、変な声の八重子の娘を、笠置シヅ子先生はご自身の恩師、服部良一先生に紹介してくださいました。変な声の私は、服部先生のピアノで、出ない声をふりしぼって「アー、アー、アー」と発声をさせられたうえ「納豆売り的な哀愁のある声だから、ま、通って来てみなさい」と入門を許されました。

私を変な声だと母もいいますが、電話でちょくちょく「あ、水谷先生ですか」と間違われるのですから、やはり親ゆずりの変な声なんだ、と私は思いますが、母はこれを認めたがりませんでした。
「私、若い頃洋楽のお稽古をしたら、セリフがうわずるって叱られて、風の吹く崖の上で、声がつぶれるまで義太夫のお稽古させられて、今の声になったのよ」と親ゆずり説を否定いたしておりました。

そして、やっと、やっと待ちに待った中学校卒業の日がやってきました。義務教育は終わったのでーす。遅刻、早退、まかりならん、学校帰りの寄り道なんぞはとんでもない、耳より10センチ髪が伸びたら編みましょう等々……規則だらけの雙葉中学とお別れです。

さあ、私はやっと自由の身。嫌いな勉強サヨウナラ──ところが、そうは問屋が卸さない。「高校だけはゼッタイ卒業するように」と母の厳しいお達しです。と同時に慶応の女子校の先生が、家庭教師にやってきて、無理やり私に大特訓──それでも所詮は一夜漬け。「何せ、白紙で出されては」と先生の苦労も水の泡。母はあわてて、試験のない学校を探し、いろいろ奔走した末に、お茶の水の文化学院は、面接だけで入学と知り、その英語科に私を入れました。「なるたけ出席するようにね」とおっしやる石田アヤ先生。「なるたけ」という言葉に“グヒ!休んでもいいのかナ?”と胸のふくらむこの私。

英語科といっても、基礎も基礎。“ジス・イズ・ア・ペン”から始まりました。英語の進んでいた雙葉中学の卒業生には退屈でたまりません。
チョット不良っぽくて髪の毛を腰まで伸ばした“オキリ”と二人で、しょっちゅう授業を抜け出します。山の上ホテルのガーデンで、なけなしのお小遣いを出し合ってお茶を飲んでは授業をさぼる。
帰りは銀座に繰り出して“テネシー”に出演中のワゴンマスターズだの、オールスターワゴンだのに声援を送るうち、ボーイフレンドなども出来たりしてなおなお授業はウワの空。
母は門限だけはガッチリ決めて、その怖いこと怖いこと。一度でいいから“テネシー”の最終ステージまで聴いていたい、ステージの終わったあと、皆でガヤガヤお茶を飲みにいってみたい……なんて、夢のまた夢。
毎朝シッカリ起こされて、学校にだけは行かされる。

学校があるんですから、早く帰って寝なきゃダメ!
アアどこまで地獄は続くやら……下手をするとこのまんま、頭の構造に関係なく大学までもやらされかねない……、なんとか早く手を打たねばと、考えに考え抜いた末、川口松太郎先生に、目一杯のネコ撫で声で「女優になりたい。お芝居がしたい」と何度も何度も迫ってみた。「出しておやりよ。娃の子は蛙だよ」
やったァ!バンザイ!!やっと、やっと、学生生活おさらばだア!!!
「ただし、夏休みの時、だけネ」とまあ、しぶしぶ母も折れて、いよいよ本格的な初舞台が決まったわけでございます。

今度は昭和26年の“ためし出演”とは違って、歌舞伎座での本当のデビューです。
出し物は中野実先生の『相続人は誰だ』というスリラー仕立ての現代劇で、謎めいたお手伝いさんが母の役で、その家の奥さま役が花柳章太郎先生です。第二幕目でお手伝いの娘が、訪ねてくる。その娘が私で、訪ねていったとたん、お芝居は中断し、その場で母と花柳先生、と私が正面を向いて手を付いて、それに喜多村緑郎先生が加わって「口上」となりました。「この度、八重子の娘・良重が新派で初舞台を踏みました。どうぞ今後ともご指導、ご鞭撻をよろしくお願いいたします」

一方、服部良一先生は、この初舞台と同時に、レコードデビューするように、“デビー・クロケットの歌”“ハッシャ・バイ”をご自分でアレンジして、ビクターで、レコーディングさせてくださいました。

どちらも昭和30年8月5日、この日が女優良重、歌手良重のスタートした輝ける日でございました。──輝けるふうに見えるのは、うわべだけで、私の毎日は?というと、毎日車に乗せられて暑い中をごあいさつ回りをするのです。
「どうぞよろしく」と頭を下げて、ごあいさつの品々を置いてくるのです。8歳の母の初舞台のときに、竹久夢二さんが描いてくれたお人形さんの手拭いを、母は私のために復元してくれました。
その手拭いと、私のヘタな歌のレコードとが、初舞台のお配り物になりました。そのあいさつ回りのシンドイことシンドイこと……。どうぞ女優に、なんて……なんてバカなことを言ってしまったんだろう……学校をさぼる代償は、まあなんて大きいんだろう……。
その揚げ句、秋からまた、学校に戻されたらホント私はバカみたい!

ところが、そうはなりませんでした。東京の初舞台が済むと、今度は大阪、そして名古屋とレールが敷かれます。
憧れの小坂一也さんの事務所から、ワゴンマスターズと一緒に巡業に行ってくれと夢のようなお話が来たときには、天にも昇る心地で、一晩中眠れませんでしたが、「巡業なんてとんでもない」さっさと母が断ってしまっておりました。

このショックからでしょうか?私の“八重子反抗期”が始まったのは……。
母はそのころ中野実先生や飯沢匡先生方と、新派の現代劇運動に力を入れており、そのためにも新派のにおいがまだついていない、むしろ新派の香りを壊すような新人を求めていたようです。自分の娘というだけではなく、私のキャラクターが、母の必要としていた“新しい風”だったのでございましょう。
衣裳や髪形も全部、私の好きにまかされていました。それが新派と場違いであればあるほど、良かったのかも知れません。
「いったん決めて、舞台稽古で演出家がOKを出したら、千秋楽まで、その扮装を変えちゃいけません」
母は、そのへんのルールは厳しく教えながら、楽屋では私のやりたい放題、どんなにお行儀が悪くても、目を細めておりました。
花柳先生も喜多村先生もそんな八重子の娘を、たいそう可愛がってくださいました。

当時の日本経済新聞のコラムで、戸板康二先生が「……特に女形が女の扮装でいながら、男の声で口上をいっているのが面白い。このあいだだけ、劇の進行は一時停止するのである。歌舞伎の場合は、これを“狂言半ばの口上”と呼ぶのだが、いずれにしても今月このために、わざわざ長老の喜多村が芝居に通っているのだから、八重子も嬉しいだろうと思う……」と書いてくださいました。
が、一方では、
「八重子の娘が鳴り物入りでデビューしたが、しかし彼女の将来を本当に考えてやるなら、いますぐに引退させてやるべきだ」との評もありました。
当然じゃない、ズブのド素人がいきなり舞台に立ったんだもの、なんにも出来ないほうが当たり前だワサ……しごくあっさり、そう思いました。

挫折するどころか、34年間もこの仕事を続けてきてしまいました。いま思うと、新橋演舞場で試し運転をさせて頂き、歌舞伎座で喜多村、花柳両先生に口上を述べて頂いた私って、なんて幸せな役者でございましょう。

生まれ育ってきた新派に、どれほど恩があるか分かりません。
100年の歴史を持ってしまった新派……。数々のクラシック、古典を生んでしまった“新”派……。私の一生なんて些細なものでございますけれど、捧げても、捧げ尽くしても足りない大恩ある新派でございます。
いま、私はそこにいる!そう思っただけで、責任の重たさに、大きさに、打ち据えられた思いがいたします。

水谷良重『あしあと人生半分史』「初舞台」より
平成3年 読売新聞社刊行

※この記事は、読売新聞社の許諾を得て転載しています
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水谷八重子プロフィール

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