新派の歴史
壮士芝居始まる
徳川幕府の鎖国時代が終わり、明治新政府の世になると、やがて文明開化の波が押し寄せてきた。
明治5年(1872)2月下旬、猿若町三座の太夫元と座付作者が東京府丁へ呼び出され「芝居御さとし論」のご沙汰を受けた。
「このごろ貴婦人及び外国人も追々見物に相成り候については、淫奔のなかだち媒となり、親子相対して見るに忍びざる等の事ょ禁じ、全く教えの一端ともなるべき筋を取り組み申すべきよう……」
つまり、これからの時代は身分高き者や外国人が見物にくるから、みだらな筋立てはいけない。またこれまでの芝居は、主君へ忠誠を誓う「武士道精神」がモラルとなっているが、これを天皇中心の尊皇思想に変えること。そして史実を重んぜよというのである。
歌舞伎界は大揺れに揺れた。明治の演劇改良運動はこうして始まったのである。
ちょうどその頃、世の中に受け入れられない不平士族たちが、徒党を組み、自由民権思想をふりかざして、公然と新政府に反抗していた。世に言う「自由党壮士」らである。当然ながら政府はきびしくこれを弾圧した。それを逃れる苦肉の策として、「壮士芝居」が誕生する。
時に、明治21年(1888)12月3日、大阪新町座における角藤定憲(すどうさだのり)の旗揚げである。
角藤の「壮士芝居」、始め物珍しさから大評判となったが、やがて理想ばかり高くて実のともなわない舞台は、次第に大衆から見離されていった。
オッペケペー節から書生芝居へ
「オッペケペー節」という滑稽で風刺のきいた唄が、明治20年代の巷を風靡した。 『自由亭○○童子』と名乗って派手な衣裳で高座に上がった人こそ川上音二郎である。
自由党の壮士であった川上音二郎は、角藤の芝居に刺激されて、書生芝居の一座を起こし、「板垣君遭難実記」等をもって、大阪堺の卯の日座で旗揚げをする。時に、明治24年(1891)2月である。
川上は角藤とは違って企画性にすぐれ、また事業家でもあった。妻の川上貞奴のひきで後継者にめぐまれ、やがて宿願の東上となる。
明治24年(1891)6月、「板垣君遭難実記」と「監獄写真鏡」を東京鳥越の中村座で上演、大評判となった。この川上の成功は「壮士芝居」の元祖角藤定憲のあとをついで「壮士芝居」発展の道を開き、さらには「新派」発生への糸口ともなった。
済美館の旗揚
川上音二郎が東京初お目見えで成功をおさめた頃、伊井蓉峰が川上一座に刺激されて、明治24年(1891)11月5日、木凉蔭、千歳米坡(※)らと「男女合同改良演劇・済美館」を結成して、浅草の吾妻座(のちの宮戸座)で旗揚げした。
この「済美館」の旗揚げは、角藤・川上らの「壮士芝居・書生芝居」とは明らかにその目的が違っている。「壮士芝居」が自由民権の政論を訴えるための手段なら、「済美館」は純粋に新演劇運動である。しかも芸術至上主義を旗印としている。
ところで、「済美館」の旗揚げにはもう一つ特記すべきことがある。それは近代日本の女優第一号、千歳米坡の登場である。
米坡は芳町の芸者で、伊井に勧誘されて舞台に立った。それまで歌舞伎踏襲の女役者はいたが、新演劇への女優登場は米坡が最初である。
※千歳 米坡(ちとせ べいは)
安政2年(1855)10月、東京下谷の桜木町に生まれる。芳町で米八と名乗り芸者に出ていた。33歳の時伊井の「済美館」旗揚げに参加、間もなく伊井と別れ地方廻りをする。大正7年(1918)没。
書生演劇山口定雄一座の登場
明治25年(1892)7月13日、市村座へ書生演劇山口定雄一座が現れた。山口定雄は片岡我童の弟子で、片岡我若(がじゃく)といった人だった。
この一座には河合武雄もいた。児島文衛という女形も売り出している。また、喜多村緑郎が正式に女形に転身したのもこの一座である。
川上一座の「意外」「日清戦」大当たり
オッペケペーで名を成した川上音二郎の書生芝居が一躍注目を浴びたのは、当時「相馬事件」として社会問題になった名家の相続事件を取り扱った「意外」(明治27年1月)の上演であった。これが大当たりして、「又意外」「又々意外」と続々篇まで現れた。
明治27年夏に、日清戦争が起こった。時局認識の早い川上はすぐにこれを芝居にして空前の大入りとなった。そしてとうとう歌舞伎の牙城を陥落させた。木挽町の歌舞伎座の舞台で「威海衛陥落」を上演、客止めの大盛況を記録したのである。
文学青年結集 成美団の旗揚げ
明治29年9月、大阪角座に「成美団」という新演劇の看板があがった。
書生芝居の波に乗った川上音二郎一座の中の演技派ともいえる高田実(26)、小織桂一郎(28)、岩尾慶三郎(29)、深沢恒三(23)の四人が、川上一座を脱退した。
同じ頃、喜多村緑郎(26)は東京を離れて福井茂兵衛と組み大阪、京都で公演していた。そして、喜多村を筆頭に秋月桂太郎(26)、木村周平(34)などの演技派で芸術至上主義を唱えていた。
これら七人とも政治青年というよりもむしろ文学青年たちであった。この七人が中心となって同志を募り旗揚げしたのである。この「成美団」の旗揚げは、のちの「新派演劇」の演技の伝承を築き上げたという点でその意義は大きい。
この時期、彼等が多く手がけたのは「家庭小説」の脚色だった。中流の女性読者を対象に、家庭で読まれるべく新聞の連載小説という形で発表されていたのがこれで、尾崎紅葉の「金色夜叉」、徳富蘆花の「不如帰」、菊池幽芳の「己が罪」、泉鏡花の「滝の白糸」などがそうである。これらはいずれも新派の古典として今日に残っている。
川上一座の帰朝みやげ 翻案もの台頭
欧米巡業中、明治33年(1900)フランスで開かれたパリ万博のロイ・フラー座での公演で好評を博して帰国した川上音二郎は、明治36年(1903)に純セリフ劇運動を開始、「正劇」と称して「オセロ」の翻案ものを上演した。
一方、川上は貞奴という女優を海外公演中にデビューさせたが、やがて女優不足を痛感し、明治41年(1908)に貞奴を所長にして、帝国女優養成所を開いた。
これは新設された帝国劇場に譲渡されて、帝国劇場付属技芸学校と改称されたが、森律子、初瀬浪子、村田嘉久子、河村菊江、藤間房子、佐藤とし子、川上澄子など多くの女優を輩出させた。彼女らは後に帝国劇場が松竹傘下となり、新派に合流される。
※川上音二郎の欧米巡業については、「川上音二郎欧米漫遊記」「川上音二郎貞奴漫遊記」などにより、道中の模様が詳しく伝えられている。また、パリで、日本人初のレコードの吹き込みが川上一座によりおこなわれ、「甦るオッペケペー 1900年パリ万博の川上一座」に記録されている。
第一期黄金時代
壮士芝居の角藤定憲にしろ、川上音二郎にしろ、新派の創始者であり、リーダーではあったが、残念ながら俳優としての「芸」は後輩の俳優たちに抜かれてしまった。
その後輩の俳優たちが多くの試行錯誤を繰り返しながら実を結ばせたのが、明治38年頃から42年頃までの本郷座時代である。「乳姉妹」「侠艶録」などを新しいレパートリーにし、高田実や喜多村緑郎などが大活躍した。
一方、伊井蓉峰・河合武雄は、明治40年(1907)の正月、新富座で「通夜物語」を出し、大好評を博した。
新派大合同
こうした新派の盛況ぶりを劇場主が見逃す筈はなく、明治41年(1908)1月、新富座の伊井・河合と、本郷座の喜多村・高田が大合同して、東京座で「東風物語」を上演した。
しかし、看板順で俳優同士が内輪もめをしたので結束ができなかった。そんな頃、15歳の花柳章太郎が喜多村緑郎のもとに弟子入りした。
また、新派の大事な作品に数えられている「婦系図」が初演されたのも、明治41年10月の新富座であった。
井上正夫の独立 連鎖劇流行する
明治40年代から大正の初期にかけて、新派衰退の風が吹き荒れた。
こうした新派に飽き足らなくなって独立を宣言したのが、井上正夫である。
明治43年(1910)11月、若手同士に呼びかけて有楽座と契約、「新時代劇協会」を結成した。しかし、3回目の公演を迎えたところで力尽きてしまった。
新劇団でしくじった井上正夫は借金返済のためもあって、浅草で連鎖劇を上演しはじめた。
当時、新興の映画界は、映画と舞台劇と組み合わせた連鎖劇というものを始め、浅草で大変な人気を呼んでいた。進歩的な井上はその時流にのったのである。
この連鎖劇が下火になった頃、外国映画の影響もあって日本でも本格的な劇映画が作られるようになった。その最初の作品が井上正夫の主演・監督した「大尉の娘」(大正6年)である。井上はこの映画で演技の写実性を唱え、「活動写真劇革新運動」を展開することとなる。
新派の作者たち 明治末から大正初期
明治後期から大正初期にかけて、新派に脚本を提供していたものに柳川春葉、小栗風葉、佐藤紅緑などがいる。いずれも尾崎紅葉の硯友社同人たちである。
当時、家庭で多くの人たちに読まれていたものは新聞の連載小説で、一般には「家庭小説」と呼ばれていた。泉鏡花の「通夜物語」「湯島詣」「婦系図」「白鷺」「日本橋」などの名作があり、それらが脚色上演されるとたちまち人気狂言となった。
しかし、オリジナル脚本を書き下ろしていたのは佐藤紅緑であり、大正になると真山青果が新派に入り脚本は充実してくる。
「日本橋」の初演 花柳章太郎売り出す
「婦系図」とならんで新派古典の代表作とされている泉鏡花原作の「日本橋」の初演は、大正4年(1915)3月の本郷座である。脚色は真山青果で、遅筆の人で原稿が進まなかった。督促に出掛けるのは師匠喜多村緑郎の命を受けた、門弟の花柳章太郎であった。
当時22歳の文学青年であった花柳章太郎は、喜多村緑郎の影響を受けて鏡花作品を読みあさっていた。日に何枚と渡される原稿を読み、「日本橋」に出て来る雛妓お千世に惚れ込んだ。まだ大部屋にいた花柳はそのお千世の役が自分に授かりますようにと願掛けをしたという。顔寄せの日、配役発表で現実にお千世の役が花柳にまわってきた。これが出世役となって花柳の前途は大きく開けたのである。
しかし、喜多村緑郎が松竹ともめ東京を離れ、秋月桂太郎、高田実、藤沢浅次郎らが次々と他界し、新派にとっては大きな打撃であった。
それを乗り越えたのが、伊井蓉峰、河合武雄、喜多村緑郎の合同による「新派三巨頭」である。
新派の三巨頭時代
「三巨頭」による最初のヒットは、大正6年(1917)1月新富座の「二人静」であった。続いて2月の歌舞伎座「生さぬ仲」も大当たりをした。
翌大正7年(1918)に井上正夫が新派に復帰し、「新派第二陣」を組織し、安定路線を行く三巨頭一派に対して、新派に新風を吹き込んだ。
しかし、大正9年(1920)4月、井上正夫は舞台を捨てて映画に走ったため、「新派第二陣」は解散した。
花柳章太郎 新劇座を旗揚げ
大正10年(1921)5月、花柳章太郎は若手俳優たち(小堀誠・英太郎・藤村秀夫・柳永二郎)とともに「新劇座」を結成し、明治座で公演した。この新劇座の公演中もっとも注目を集めたのは、大正11年(1922)4月の有楽座における「雨空」で、花柳章太郎は新派俳優としては始めて、国民文芸会賞を受賞した。
以後、新劇座は年一回のペースで公演し、昭和11年(1936)まで自主公演を続けた。
水谷八重子 第二次芸術座を旗揚げ
坪内逍遙が明治42年(1909)に新劇運動の根城として起こした文芸協会のあとを継いで、「芸術座」を設立した島村抱月、松井須磨子が亡くなると、芸術座は事実上崩壊した。
その芸術座で子役として初舞台をふんだ水谷八重子が、義兄水谷竹紫の後押しで「第二次芸術座」を旗揚げしたのは、大正13年(1924)2月であった。出し物は「ども又の死」「人形の家」であった。
その後、昭和3年(1928)10月に松竹と契約を結び傘下に入り、新派入りをする。
「二筋道」空前の大ヒット
昭和5、6年頃、新派にまた衰退の兆しが見えてきた。伊井蓉峰が松竹傘下を離れて浅草の公園劇場を根城に「本国劇」を結成したのもこの頃である。
昭和6年(1931)、初代瀬戸英一の斡旋で戻ってきた伊井蓉峰のために、瀬戸は「二筋道」を書き下ろし、昭和6年11月、明治座で初演した。伊井蓉峰、喜多村緑郎、河合武雄、花柳章太郎らが組んだ「二筋道」が大当たりとなり、すぐにシリーズ化して、続篇・続々篇と六篇まで続き、昭和8年(1933)の「お名残二筋道」で一応ピリオドを打った。
井上演劇道場の創設 中間演劇活動始まる
昭和7年(1932)8月に伊井蓉峰が亡くなると、喜多村緑郎、河合武雄、花柳章太郎と看板俳優が女形だったので、女が中心の狂言が選ばれがちだった。
そんな中、井上正夫は新派の中に男性路線を敷くため、井上一座の後続陣に演技の勉強を積ませる必要があると考えた。
昭和11年(1936)、井上は私財を投じて「井上演劇道場」をつくり、〈新派と新劇との中間をゆく〉との看板を掲げて運動をし始めた。
また、新鋭演出家や新進劇作家とも提携した。
新派創立50年を迎える
昭和12年(1937)2月、角藤定憲の「壮士芝居」旗揚げ(1888)から満50年ということで、その記念公演が東京歌舞伎座で、同じく3月、関西新派の記念興行が大阪角座で賑々しく行われた。当時の新派幹部俳優が一堂に会しての公演だっただけにまことに豪勢であった。その時の演目は、
〈東京・歌舞伎座〉
第一 新派創立五十年祭 口上
第二 ふりだした雪
第三 淺草寺境内
第四 眞實一路
第五 婦系図の一節 湯島の境内
第六 渦巻
〈大阪・角座〉
第一 新派創立五十年祭 口上
第二 良人の貞操
第三 書生の犯罪 劇中劇「オッペケペー節」
…………………………………………………
第一 新派創立五十年祭 記念興行口上
新生新派の旗揚げ
佐藤紅緑のあとをついで大正年間ひとり健闘していた真山青果が新派を去ったあと、「二筋道」の瀬戸英一を失い、昭和に入って活躍していたのは河村花菱であった。しかし、昭和10年(1935)11月の「明治一代女」、昭和11年(1936)10月の「風流深川唄」、昭和13年(1938)1月の「鶴八鶴次郎」が大ヒットした川口松太郎が、新派と濃密な関係となった。
この頃、井上演劇道場の結成に刺激された花柳章太郎は、昭和14年11月、「新生新派」を結成する。同人には、柳永二郎、大矢市次郎、伊志井寛、川口松太郎、大江良太郎らであった。
戦時下の新派
「新生新派」が結成されると、新派は喜多村・河合・梅島昇らの「本流新派」、「井上演劇道場」、水谷八重子の「芸術座」の四つに分かれた。
昭和17年(1942)3月、河合武雄が亡くなると「本流新派」は解体。太平洋戦争が熾烈になった昭和19年(1944)に享楽追放令が出て、主要大劇場が閉鎖され、井上一座と芸術座が一時解消を余儀なくされた。
しかし、「新生新派」だけは、工場慰問、増産激励の移動演劇をやって細々とその寿命を保っていた。
劇団新派の誕生
昭和20年(1945)8月15日、敗戦によって焼土と化した東京にただ一つ残った東京劇場に新派が大合同したのは、昭和21年12月であった。
「深川女房」「残菊物語」「歳月」「湯島境内」「鶴八鶴次郎」とならべた演目に観客が殺到した。
こうして分散していた新派は大合同して昭和24年(1949)、「劇団新派」の名の下に結集した。
新派百年記念公演が行われる
喜多村緑郎、花柳章太郎、水谷八重子ら名優達の死を乗り越え、昭和62年(1987)2月、角藤定憲の「壮士芝居」より数えて100年目、新橋演舞場において新派百年記念公演が行われた。演目は、「遊女夕霧」「十三夜」「佃の渡し」「口上」「日本橋」。
記念公演としては、
昭和62年3月、日本橋高島屋。「新派展覧会」。
昭和62年6月、新橋演舞場。「太夫さん」「つきじ川」「歌行燈」「明治一代女」。
昭和63年2月、新橋演舞場。「恋桜」「心中宵庚申」「婦系図」。
昭和63年6月・7月、地方巡業。「おりき」「寺田屋お登勢」。
などが行われた。
「新派の百年 目で見る新派史/岩井創造著」より引用