明治39年(1906年)白井松次郎、大谷竹次郎兄弟の松竹合名会社が南座の経営に当たります。そして大正2年に改築。さらに昭和4年、由緒ある櫓を備えた桃山風破風造りの典雅な劇場を竣工させ、以来激動の昭和期を通し京阪の代表劇場として多様な演目を取り上げました。とりわけ京の年中行事となった歳末の吉例顔見世興行は戦中も一度も絶えることなく、古来よりの吉例を重んじながら、その歴史に新しい頁を加え続けて参りました。
平成3年(1991年)、松竹株式会社会長永山武臣により、京都の歴史的景観にとけこんだ建物はそのままに内部設備を一新した最新設備の近代劇場として改修され、同年11月新装開場記念 吉例顔見世興行によって平成の南座が新たに幕を開けました。
平成8年(1996年)、国の登録有形文化財に登録され、その後京都市の歴史的意匠建造物にも指定されています。
平成28年(2016年)2月より、2年以上にわたる耐震補強大規模改修工事を経て、平成30年11月吉例顔見世興行をもって再開場いたしました。
日本を代表する国際文化都市・京都に立地し、日本最古の歴史を持つ劇場・南座の価値を最大に活かして次代に継承することをコンセプトに「伝統的な古典芸能」から「新たなライブエンタテインメント」まで、年間を通して幅広い文化を国内外へ発信する劇場へと新たに生まれ変わる南座にご期待ください。
『洛中洛外図屏風 舟木本』 江戸時代17C 岩佐又兵衛 筆(東京国立博物館 所蔵)
南座の歴史
慶長8年(1603年) |
出雲阿国、京に至り歌舞妓躍りを演ず。 「此頃カフキ躍ト云事有。出雲國神子女、名ハ國、出仕、京都へ上ル。(中略)京中ノ上下賞翫スル事不斜」(『当代記』) |
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慶長13年(1608年) |
四條河原において女歌舞伎の興行が行われ評判となる。 「二月廿日、四條に女歌舞伎を見物せしむ。群衆數萬人」 なり(『小槻孝亮宿禰日次記』) |
慶長19~20年(1614~1615年) |
四條河原を中心に櫓を構えた芝居小屋が並び始め、女歌舞伎や人形遣いの興行で賑わいを見せる。南座の 原初形態か。(『国宝洛中洛外図屏風舟木本』) |
慶長~元和年間(1601~1620年) |
京都所司代板倉勝重により七つの櫓が官許される。 「かつて、板倉伊賀守勝重、京尹たる時、櫓七箇を免す。七箇所芝居のほか、これを構ふること能はず。櫓無きものは小芝居と称す」 (黒川道祐『雍州府志』『日次紀事』) |
寛永年間(1624~1644年) |
四條河原の歌舞伎小屋の隆盛。
「六条の傾城町より佐渡島といふもの、四條河原に舞台 たて、けいせい数多舞ををどらせけり」 (浅井了意『東海道名所記』、『四條河原図屏風静嘉堂本』) 天桂院蔵「四条河原遊楽図屏風」
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万治・寛文年間(1658~1673年) |
芝居小屋の櫓太鼓。 「夷や吉郎兵衛・大和屋六兵衛・村山又兵衛、この三兵衛が太鼓をうちたたく」 (同・『東海道名所記』) |
元禄年間(1688~1704年) |
3つに分かれていた南側芝居の小屋の規模。 「東西12間2尺、南北29間半(芝居主=大和屋利兵衛)」 「東西12間4尺、南北23間 (芝居主=越前屋新四郎)」 「東西 7間、南北12間4尺 (芝居主=伊勢屋嘉兵衛)」 ※1間=約1,82m/1尺=約30,3㎝ |
宝暦6年(1756年) |
顔見世の賑わい。 賑わし。(中略)此此、乗り込みとて登り役者の京入り、こと ごとしき也」 「今日より南側芝居、顔見世始り侍る。いと早く皆人行くめり。女児などは夜も寝ずにこしらへて、夜のうちより出て 侍るめる (本居宣長『在京日記』) |
文化・文政年間(1804~1829年) |
北側の芝居と南側の芝居の二座となる。 「近世京師芝居は、四條大橋東に二所、相対して之在り。 此二所を大芝居とす」 (『守貞漫稿』) |
明治26年(1893年) |
5月に北側芝居が廃座、南側芝居のみが存続する。 |
明治39年(1906年) |
松竹合名会社が南座の経営に当たる。
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大正2年(1913年) |
11月に南座は全面的な改築をする。
12月吉例顔見世興行。この時より東西合同のスタイルとなる。
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昭和4年(1929年) |
昭和の南座が新築落成される。
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平成2年(1990年) |
2月に興行を終え、3月より大改修工事に入る。 |
平成3年(1991年) |
10月南座新装開場となる。
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平成8年(1996年) |
南座の建物が国の登録有形文化財に登録される。 |
平成30年(2018年) | 11月南座発祥400年 南座新開場
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※参考資料:守屋毅『近世芸能興行史の研究』、京都市編『京都の歴史』ほか