歌舞伎が世界に誇る日本の伝統芸能であることは多くの方がご存じかと思いますが、 なぜ松竹という一民間企業によって、歌舞伎の製作、興行が担われているのか。 意外と知られていない歌舞伎と松竹の関係性をここではみていきましょう。
松竹創業の興行の番付
白井松次郎と大谷竹次郎
時は1890(明治23)年に遡ります。
京都祇園の地にあった祇園館という劇場に、当代一の歌舞伎俳優であった九代目市川團十郎が出演し、上方の花形俳優として活躍中の初代中村鴈治郎が共演することとなり、大きな話題を集めました。
この前代未聞の舞台を、祇園館館内の売店の手伝いをしながら、目をきらきらとさせながら食い入るように見つめていた双子の少年たちがいました。
その少年たちこそ、松竹の創業者である白井松次郎と大谷竹次郎です。のちに大谷竹次郎は、「芝居というものに私が一生を捧げて悔いない気持ちになったのは、あとで考えてみると、14の年の正月に祇園館の團十郎、鴈治郎の舞台を見てからだ」と語っているように、
この歴史に残る名舞台が、120年以上にわたって演劇、映画の製作、興行を社業としている松竹誕生のきっかけとなったのです。
やがて白井松次郎、大谷竹次郎のふたりは、家業であった芝居小屋の売店の経営にあきたらず、歌舞伎を主とした演劇の興行を自らの手で行うようになります。現在では、竹次郎が京都新京極の地にあった阪井座(現在の京都松竹阪井座ビル)の興行責任者となった1895(明治28)年を、松竹創業の年と定めています。
かくして松次郎、竹次郎のふたりは切磋琢磨しながら、明治という新しい時代に即した興行施策を推し進め、次々と興行を成功させ、新京極の地に立ち並んでいた芝居小屋を買収。
1902(明治35)年には、兄弟の名前にちなむ「松竹合資会社」を設立。さらに京都で最も歴史のある南座の経営権も獲得しました。
東京に進出した当時の歌舞伎座
新進気鋭の興行師として頭角を現したふたりは、当時、西日本最大の劇場街といっても過言ではなかった大阪道頓堀の劇場も次々と傘下に収め、1910(明治43)年には東京に進出し新富座を買収。
その3年後には、すでに日本を代表する劇場としてのブランドイメージを確立していた歌舞伎座の経営権を獲得します。
またこれと前後して、人形浄瑠璃の興行を担っていた文楽座が経営危機に直面し、時の紋下である竹本摂津大掾の願いもあって、文楽の興行も松竹が担うこととなり、1963(昭和38)年の文楽国家献納に至るまで、半世紀のあいだ文楽を支えていたのです。
佐伯勇文楽協会副理事長に文楽献納目録を贈呈する大谷竹次郎
さて江戸時代から近代にかけて、歌舞伎はそれぞれの劇場が特色ある俳優陣を揃えて興行を行っていました。いわば群雄割拠の体であったものが、松竹が破竹の進撃でつぎつぎと各劇場を傘下におさめることによって、興行界の統一がはかられていきました。 こうした流れのなか、1929(昭和4)年、創業からわずか34年で大劇場の歌舞伎公演は松竹が全てを担うこととなったのです。
白井松次郎・大谷竹次郎
歌舞伎のみならず、新派、新喜劇、翻訳劇、軽演劇、文楽、レビューなど多彩なエンターティメントを松竹はこれまでも、そしてこれからも提供していきますが、歌舞伎の製作、興行に重きをおいているのは、
すでに述べたように松竹創業のきっかけが歌舞伎であったことと、創業者ふたりの歌舞伎に対する並々ならない愛情が、現在も受け継がれているからにほかなりません。
第五期新開場柿落とし興行。
一民間企業が伝統芸能を支えているのは、世界でも稀なビジネスケースですが、松竹は歌舞伎が伝統芸能でありながら、現代性を持ち合わせたエンターティメントとして未来へつなげていくために、古典の継承と時代のニーズに合わせた新しい歌舞伎の創造を両輪として、「日本の歌舞伎」を「世界の歌舞伎」とするべくこの後も邁進していきます。