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附打(つけうち) 芝田正利

――これまでのご経歴を教えてください。

芝田 昭和40年、長谷川大道具(現・歌舞伎座舞台)に臨時雇用として就職しました。きっかけは、兄の勧めでした。兄は、襖や屏風の紙を貼りかえる仕事、経師屋(きょうじや)をしており、私よりも早くこの世界に入っていました。私はというと、何をやっても長続きせず、誘われた時もまるで、兄に監視をされるようで嫌でした。結局、母親の涙に応える形でしぶしぶ入社をし、兄と同じく経師屋として公演がない時に働き、公演中は大道具として組み立てや転換、飾りつけをしていました。普通の人は、3カ月ほどすると正社員になれるのですが、私は1年かかりました。気づけば53年です。

正社員になって半年経った頃。体が小さく、休むことが多かった私の様子を見ていてくれたのでしょう、師匠である中村藤吉さんが「附打を覚えてみないか」と、手を差し伸べてくださいました。師匠は、尾上菊五郎さんの“菊五郎劇団付き”でツケを打っていました。元々附打は、劇場の大道具の仕事だったのですが、師匠の時代は俳優さんや劇団などの個人に付いて打つことが多くなっていました。今は大道具の仕事の一つとなっています。

29歳の芝田さん

――技術は、どのようにして習得されていったのでしょうか。

芝田 師匠に声をかけていただいたものの、なかなか教えてもらえず、「とにかく、芝居を見ろ」と口癖のように言われていました。“色んな人の芝居を見て、俳優さんの「間」を勉強しなさい”、ということだったのだと思います。しばらくすると、ツケ場(附打さんが控えている場所)に呼ばれて、師匠と相対して毎日、痣になるほどに膝を打って練習をするようになりました。ツケ木(ツケを打つための木)を持たせてもらったのが1年後のこと。師匠の今にも割れそうなほどに古くなったツケ木をいただきました。いただいてからは、舞台が終わりスタッフが帰った後、一人で残り、頭の中で何度も何度もこれまで見てきた芝居を繰り返し、練習をしました。

練習をしていると、俳優さんによって “せっかちな人”、“遊び心がある人”、“その日のウケによって芝居が変わる人”と分かるようになりました。それに合わせることは怖くもあります。生だからこその楽しさであり、やりがいだと思っています。また、梅雨の時期ですと、高音が出にくくなったりと、附打の木は季節や気候によって出る音が異なります。私たちも、一日として同じ日がない。毎日が違うのです。

――附打のタイミングは、どのようにして俳優さんと合わせるのでしょうか。

芝田 附打は、お客様に見えるところに座らせてもらっていますが、大道具の一員ですからあくまで裏方です。俳優さん、演奏家さん(竹本・義太夫)を盛り立てるのが、我々の仕事です。ですので、まずは俳優さんに合わせます。次に唄っている方、楽器を演奏している方に合わせます。 私が若かった頃、なかなかタイミングが合わず悩んでいた時に、ベテランの義太夫の三味線方さんに、「俺に合わせれば合うんだよ」と言われたことがありました。ですので、台詞ではなく、唄のタイミングで打つことが多いですね。ピタッと合うのは、1年に1度、2度あるかないかです。

――ツケを打たれる際に、心掛けられていることを教えてください。

芝田 ツケの音は、役柄によって異なります。男か、女か、大人なのか、子どもなのか、侍か、町人か……。全て音を違えなければなりません。音と間で役柄を打ち分けていきます。例えば『子守』という舞踊劇では、子守の女性が主役です。本当に小さな音でパタパタと歩く音を表現していると、不思議なことに打っているこちらの顔も、女性らしくなってくるんです。感情移入をしすぎてしまうのでしょうね。



つづく

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#08