《ドン・ジョヴァンニ》新演出 現地レポート
音楽ジャーナリスト@いけたく本舗 池田卓夫
クールな空間に閉じ込められ「精神の牢獄」に消えていく道楽者〜
イヴォ・ヴァン・ホーヴェ演出&ナタリー・シュトゥッツマン指揮の《ドン・ジョヴァンニ》
2023年5月20日のニューヨークは、ひどい雨降りで肌寒かった。だがMET(メトロポリタン歌劇場)に足を踏み入れると、評判上々の新演出《ドン・ジョヴァンニ》(モーツァルト)への期待に胸を膨らませた観客の熱気が充満していた。ごく一部の高齢者を除き、もう誰もマスクをしていない。プログラムを開くと「この午後の上演は世界にハイビジョン中継されます」と書かれ、日本でも後日「METライブビューイング」で観られる舞台だと知った。休憩時間にはロビーのモニター画面で、日本のファンにもお馴染みの幕間インタビューが当日の観客に‟生中継”される。聞き手は交互に上演していた同じ作曲家、同じ指揮者の《魔笛》でパミーナを歌っているソプラノ、エリン・モーリーで主要キャスト7人、指揮者と対面した。舞台最前部には自走カメラのレールが敷かれ、歌手の生々しいアップを捉えるため左右にせわしなく動いているのも面白かった。
《ドン・ジョヴァンニ》を任されたベルギー出身でオランダ本拠の演出家イヴォ・ヴァン・ホーヴェ、コントラルト(女声の一番低い音域)歌手から指揮者に転じたフランス人ナタリー・シュトゥッツマンの2人とも、今回がMETデビューに当たる。ヴァン・ホーヴェは昨年(2022年)、新国立劇場の演劇《ガラスの動物園》で注目を集めたばかり。
METの《ドン・ジョヴァンニ》でもピラネージの建築やエッシャーの「だまし絵」を思わせる抽象的でクールな建物、あるいは壁に囲まれた舞台(美術=ヤン・ヴェーゼイヴェルト)は「閉ざされた空間」として描き「過去、現在、未来のいずれにおいてもモダン」(ヴァン・ホーヴェ)な印象を与える。登場人物はスーツ姿をはじめ、現代のいでたち。場所の特定もない。
「あらゆる‟上から目線”パワーを乱発する人間なんて全然カッコ良くない」と考える演出家は、《ドン・ジョヴァンニ》よりも原題の《罰せられた犯罪者》に焦点を当てる。主人公をソシオパス(社会病質者)とみなし、最後は自身が種をまいた「精神の牢獄」に吸い込まれていく。ともすれば暗くなりがちな世界に新鮮な音の風を吹き込み、歌手たちを存分に歌わせるとともに、18世紀音楽に欠かせない「軽やかさ」「歯切れ良さ」をMETオーケストラから引き出したシュトゥッツマンの指揮も素晴らしかった。
キャストも隙がない。ペーター・マッテイ(バリトン)は1999年の仏エクス・アン・プロヴァンス音楽祭日本公演、ピーター・ブルック演出の舞台(ダニエル・ハーディング指揮)に抜擢されて以来ドン・ジョヴァンニを演じ続けているが、相変わらず若々しく長身で見栄えがするし、歌の味わいが遥かに増した。ツェルリーナのイン・ファン(ソプラノ)はセイジ・オザワ松本フェスティバル2022の《フィガロの結婚》(沖澤のどか指揮)スザンナでも絶賛されたモーツァルト歌い。伸びやかな声で、したたかな娘を生き生きと演じる。さらにドンナ・アンナのフェデリカ・ロンバルディ(ソプラノ)の澄んだ声と情感のこもった歌唱、ドン・オッターヴィオのベン・ブリス(テノール)の引き締まった声と通常よりも「頼り甲斐のある」キャラクター造形は絵になるカップルといえ、強い印象を放つ。他の歌手も適材適所で、強力なアンサンブルを展開する。
音楽が洗練の極みにあるだけでなく、演劇的にも細部に至るまで「観どころ」満載のヴァン・ホーヴェ版《ドン・ジョヴァンニ》。クローズアップを多用したライブビューイングの画像に映画館の大スクリーンで接する時、METの客席からでは得られなかった発見も「たくさんあるに違いない」と、今から上映を心待ちにしている。