《さまよえるオランダ人》みどころレポート

2020年7月2日 木曜日

音楽評論家 広瀬大介

 

METライブビューイングでワーグナー作品を観るのは、やはり特別な体験と呼ぶべきだろう。2018/19シーズンの《ワルキューレ》でも、圧倒的な音楽の迫力を映画館の大スクリーンと大音響で満喫したことをおもえば、あの時の興奮をふたたび味わえることは贅沢の極みであろう。3月中旬より公演が中止となったメトロポリタン歌劇場にて公演中止の数日前に収録した映像であり、それを映画館で味わえることも、また特別の機会ということになる。

フランソワ・ジラールの演出は、控えめな照明に簡素な舞台を基調としているが、ゼンタの(狂気と紙一重と言うべき)揺るがぬ信念を背後から見守る大きな目、舞台上から吊される糸紡ぎを象徴する太い縄などは、METの広い空間にも負けぬ存在感。スクリーンで観たときの迫力にも事欠かないとおもわれる。

 

筆者がアニヤ・カンペの歌声を初めて聞いたのは、奇しくも2007年2〜3月に上演された新国立劇場でのワーグナー『さまよえるオランダ人』でのことだった。当時はまだ知るひとぞ知る歌手、という扱いだったが、第2幕「ゼンタのバラード」を歌い始めた第一声から、芯の強い、劇場の隅々にまで響きわたる声で聴き手を魅了した。その卓越した実力は明らかで、この歌手が今後世界の一流歌劇場に出演し続ける未来が容易に想像できるほどすぐれていた。その後、ヨーロッパでの飛ぶ鳥を落とす活躍は知らぬものとてないが、メトロポリタン歌劇場への出演は、なんとこの《さまよえるオランダ人》がはじめてとのこと。あの当時のパワフルな声に加え、その歌唱には二人の男性の間で引き裂かれる様子をじっくりと描く奥行きが生まれている。脇を固めるマリー役には、いまなお揺るがぬ安定した声を誇る、メトロポリタン歌劇場初出演の藤村実穂子が出演しており、いま最強の女声コンビと言ってよいだろう。日本人歌手としては初めてのライブビューイング出演でもある。

 

 題名役オランダ人には、世界の第一線で活躍するエフゲニー・ニキティンを迎えており、軽さと深みを併せ持った声で屈折した人物像を造形。フランツ・ヨーゼフ=ゼーリヒはやや生真面目さも感じさせるダーランドを、セルゲイ・スコロホドフは伸びの良い高音で、海の男と対峙する漁師エリックを好演している。

 

 

 昨年にはワーグナー上演の総本山、バイロイト音楽祭への初登場を果たした巨匠ヴァレリー・ゲルギエフ。本拠地のマリインスキー劇場をはじめ、数多くのワーグナー上演を手がけており、いまやワーグナー指揮者としても注目すべき存在となっている。雄弁な音楽の説得力は、二部に分かれた男声合唱が活躍する第3幕の嵐の場面、とくに水夫と幽霊の音楽が剥き出しのままでぶつかり合う箇所で、十全に発揮された。これだけの大規模な上演を、次に舞台上で観ることのできる日を夢見つつ…、本作をぜひ映画館でご堪能頂きたい。

METライブビューイング
2024-25
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