Princess Letter(s)! フロムアイドル

空虚という言葉の意味を、
その頃のあたしは
知らなかったから。

ただただ無自覚に感情の向くまま。
ぼうっとすることが多くって。

でも別に。

それがおかしなことだとは思ってなくて。
むしろ。

何でもないようなことでも口角を上げることのできる周りのみんなのことを。

どうしたらそんな表情ができるのか不思議に思ってたくらいだった。

ああ、そうだ。

あたしが自分の空虚を自覚していなかったように。
たぶん。

その頃のあたしは。

――笑顔の感情を、知らなかったんだと思う。

* * *

通っていた中学校は山の上にあった。
校庭にはたくさんの桜の木があって。

そのうちの一本だけ。
毎年春になっても花がつかなかったことを覚えてる。

その咲かない桜の木の裏で。

まわりがピンクに染まる中、焦茶色でぽつんと立つその木の近くにいるとあたしはなんだか落ち着いて。

どことなくあたしと同じ体温の、かさかさの幹に背中を預けながら。

山の上から切り開かれたように広がる灰色の空を、ひとりで眺めることが多かったなあ。

ある日。
いつ、って具体的には覚えてないけれど、ある時。

その咲かない桜の肌に空いた小さな隙間に。

手紙。

が。挟まっていて。

ああ、だれかが置き忘れたのかな?
なんて最初は思ったのだけど。

あたし以外は近寄ろうともしない、ひとりぼっちの桜の木の蔭に。

ううん――花がつかないそれはもう、まわりと同じ桜なのかどうかも分からない、そんな〝名無し〟の木の蔭に。

あたし以外の誰が手紙を置き忘れたんだろうと不思議に思ったから。

思わず手に取ってみると。

封筒の表には、はっきりとした文字で。

『親愛なる、』

なんてことが。
書かれていたんだった。

『親愛なる、』?

親愛なる――だれにだろう?
そのあとは何も書かれていなくって。

いつもならきっと放っておいたのだろうけど。
もしくは先生かだれかに届けたのだろうけど。

その宛名のない手紙のことが。
ちょっとだけ。ちょっとだけ。
気になって。

中を開いてみたんだった。
冒頭には。

『この手紙を受け取っただれかへ』

そんな一文があって。ああそうか。

この手紙は。
ほかのだれでもない、

――あたしに向けられたものだったんだ。

『この手紙を受け取っただれかへ』

その続きのことは、どうしてだろ。
あんまり覚えていなくって。とにかく。

あたしは手紙の主に。

〝お返事〟を書いてみることにしたんだった。

* * *

「かえって、きた……」

名無しの貴女からの手紙は、ふしぎとまた。
咲かない名無しの木に空いた洞に置かれていて。

だれが届けているのかも。
だれが届けてくれるのかも。分からなかったけど。

その時のあたしは特に気にもしなくって。

手紙の中の名無しの君に。
名無しのあたしから。
やっぱり名無しの木の空洞を通じて。

書いて。書かれて。いつしか夢中になって。
書いて。書かれて。季節は。巡って。

また春になって。

いつかの雨上がりに。
名無しの木に向かって駆けていくあたしの。
その表情が映った水たまりには、どうしようもなく。
口角の上がった自分の顔があって。

ああ、そうか。
これが、きっと。

――笑顔の感情だったんだ。

そんなことを考えるうちにまた。

書いて。書かれて。夢中になって。
書いて。書かれて。季節は。巡った。

いつしかまた春になって。

ある日。
いつ、って具体的には覚えてないけれど、ある時。

いつもと同じ、花がつかない木の肌に。
ぽっかり空いた洞にどこからか届いた手紙。

その中で。名無しの貴女は。
自分がふだんは〝アイドル〟として活動していることを、打ち明けていて。

今まで隠しててごめんって。
それで……アイドルはもう、やめることになったって。

他にもいろいろな言葉が連なっていたけれど。
つまりは。

これが――最後の手紙になるって。
そんなようなことが、書かれてた。

今まで隠しててごめんって。
貴女は繰り返し言うけれど。

べつに。そんなの。

貴女がアイドルだったなんて。そんなの。べつに。
知ってたから。

知ってたから。知ってたから。

だって。

あたしにとって。

手紙の中で憧れた名無しの貴女は。

あたしに笑顔の感情を教えてくれた貴女は。

ずっとずっと前から。

どうしようもなく。

――あたしの、アイドルだったんだよ?

ぽたり。書いていた手紙に。
水滴が落ちて。
それはもうどうしたって、止まることはなくて。

書けば書くほど。滴り落ちて。
書けば書くほど。想いは零れて。

そんな風にして書いたあたしの最後の手紙。
どんなことを書いたっけ。覚えて。ない。や。

まあでも……べつにいっか。
最後の手紙が貴女に届いていたとしても。
きっとその文面は。

涙で滲んで、たいして読めないだろうから。

だからもう。
どんなことを書いたのかはよく覚えてないけれど。
手紙の最後に綴った言葉だけははっきり覚えていて。

それはたくさんの。

ありがとうの言葉と。
心の底からのありがとうの言葉と。
今までの感謝と。

あたしもアイドルに。
アイドルになるっていう心の底からの決意。
これからの決意。

空虚だったあたしに。
こんなにも素敵な感情を教えてくれた貴女のような。

〝だれか〟を笑顔にできるアイドルに。

あたしもなるって。

名無しなんかじゃない――
あたし自身の決意を載せて。

木の洞から。
手紙は、消えた。

代わりに。

焦げ茶色の枝の端に。
触ればすぐに折れてしまいそうな先っぽに。

小さな小さな。
桜色のつぼみができていて。

ああ、そうか。

この名無しの木の名前は――

風が吹いて。
振り返った空は灰色とはほど遠い、澄んだ蒼天。

そのどうしようもない青色の下で。
風に揺らめく桜色が降りしきる真ん中で。

口角の上がったあたしの頬を、涙が伝った。

――そんな春だった。

* * *

雁矢よしの ポエトリーノベル#0
『名無しの桜』
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