企画を現場で形にする
松竹撮影所 製作 岩田 均
流れるエンドロール。その長さに映画に携わった人の多さを知ります。そんな数多くの現場人の一人ひとりの力のピースを組み合わせ、思いを一つにするために全てをかける仕事があります。今回は松竹撮影所より長年撮影現場に携わられてきました、製作・岩田均さんをご紹介します。
Q.まず、製作とはどのような仕事でしょうか。
―企画プロデューサーと撮影所の製作の違いをもう少し詳しく教えてください。
岩田:製作費の区分けから話すと分かり易いと思います。映画作りには、「アバブ・ザ・ライン」と「ビロー・ザ・ライン」と呼ばれる予算があります。「アバブ・ザ・ライン」とは、企画プロデューサーが扱う予算です。主には企画の原作料や監督料、脚本料、そして主な俳優の出演料などにかかる費用のことです。一方「ビロー・ザ・ライン」は私たち撮影所の製作が管理します。これはスタッフにかかる人件費・移動費・食事代や美術、衣裳、メイクなど撮影現場で実際に発生する費用のことで、映画によっては特殊な衣裳やメイクなどは「アバブ・ザ・ライン」に含まれることもあるので、都度予算配分について企画プロデューサーと取り決めをします。
岩田:製作の一連の仕事は、上がってきた台本を読み、まずは監督や企画プロデューサーのイメージを汲み取ることから始まります。次にカメラマンや美術デザイナーなどメインスタッフに参加してもらい、撮影現場スタッフがどんなことをしたいのか、例えばロケなのかセットなのかといったスタッフたちの要望を引き出し、映像を作るための条件を見つけ、ロケーションづくりを交渉します。例えば『愛を積むひと』(2015年、朝原雄三監督)の場合、北海道中でロケ場所を求め、監督が「ここだったらいいね」という場所にオープンセットができるまで、探し始めてから3年の月日が経っていました。このように何度も要望を予算と照らし合わせ交渉し、監督の目指す演出イメージに近づけていきます。
岩田:まず映画全体の上映時間を考えます。台本1ページを基本1分として計算します。ですが120ページだからといって2時間の映画で納まるわけではありません。ト書きが一行であっても、実はとても重要なシーンで時間を充てる場合もあります。この辺りの計算は監督との会話や経験値がものをいいます。そこから撮影場所や俳優のスケジュール、セットやロケなど様々な要素を取り込んで予算を作っていきます。
岩田:『釣りバカ日誌4』(1991年、栗山富夫監督)の鯉太郎が生まれるシーンです。赤ん坊が生まれる予定日に合わせ、生まれたら出演して貰う約束で撮影の日にちを決めていました。しかし雨でスケジュールが狂い、赤ん坊鯉太郎の出演が急遽早まってしまいました。赤ん坊はまだお腹の中。撮影は明日とどうにもならず、私は母親に電話を掛けて「近所で生まれたばかりの赤ん坊がいないか探してくれ」と頼みました。たまたま生まれて7日目くらいの赤ん坊を掴まえることができ、次の日連れて来て貰い撮影に入りました。撮影にあたり栗山監督には、「絶対にオムツを替えるのは駄目だ」と念を押し無事に終了しました。なぜなら、鯉太郎は女の子だったからです。
Q.製作費の削減や最新映像技術など、近年映画製作の在り方が大きく変化をしていますが、どう見られていますか?
大船撮影所時代は、製作主任、製作進行という2つの役割担当で行っていました。しかし今は、一人あたりの労働時間を軽減させるため作業を細分化し、一つの映画に対し4~10人の製作スタッフがつきます。また80年代は90%近くが社員のスタッフだったのが、今は95%がフリースタッフです。考え方の違いも多くなり、同じ方向を向いてモノづくりをすることが大変にもなりました。と言っても大船時代から一緒に仕事を乗り越えたフリースタッフも多く、大船の血は今も外部に流れているのも事実です。
下積みの経験は撮影スタッフだけではなく、企画プロデューサーも同じです。現場経験がなければ、現場で何が起きているのか知ることができませんし、どんな人が働いているのか、自分の肌で感じなければ分からないことがたくさんあります。一本の映画を作るのに製作費全体がどれくらいかかるのか。そういった肌感覚が鈍ってしまうのです。自分の感覚に確かな裏付けがなければ、脚本や監督と向き合うことも難しくなります。映画作りは企画プロデューサーも製作もそれぞれが戦わなければなりませんから。
―京都撮影所も同様の状況に変わりつつあるのでしょうか?
岩田:「必殺仕掛人」(1972年)から始まった「必殺シリーズ」や「鬼平犯科帳」のように、京都撮影所は時代劇の撮影が中心となっていて、オープンセットを利用してのテレビ作品が多く撮影されています。そのため狭い町をいかに広く、同じ場所に見せないように撮影するか、美術・装飾が工夫、苦心しているのが特徴です。
映画作りも”昔ながら”を踏襲していることが多く、製作現場においては、
多くのスタッフが一つ一つ経験し、段階を踏んで成長しています。スタッフの映画に対する姿勢も東京スタジオと同じようにフリースタッフが多いのですが、社員のスタッフと同じ帰属意識で松竹撮影所の伝統を守るモノづくりをしているように思います。
―撮影技術もはるかに進歩をしたかと思います。現場はどのように変わったのでしょうか。
岩田:日進月歩で機材が目新しく変わり、色々な方法で撮影ができるようになりました。ですが、撮影機材やそれに付属するものも増えました。かつて撮影の大部分が大船撮影所のステージにセットを作り完結されていたものが、製作費の減少によりオールロケーションが増え、機材を全て現地へ持っていかなければなりません。その分機材を運ぶトラックを出さなければならないので、4台程で済んでいたものが今や15台近く必要です。便利になっている一方で荷物は減りません。しかも15台のトラックが停められる場所を都内で求めることは難しく、ロケ場所は郊外に散らばることになります。駐車場所の確保など、製作スタッフが増える原因です。なおかつ地方にロケ場所を求めることで撮影時間が制約され、演出時間や撮影にかなり影響するようになったと思います。
Q.岩田さんの思う製作とはどのような仕事でしょうか。 また求められることはどのようなことでしょうか。
今でも覚えているのが、『釣りバカ日誌』の試写会の時のことです。杖をついたおばあさんが私に近づきこう言ったのです。「今年も楽しかった。ありがとう。またお願いしますね」と。「ありがとう」の一言と「また」と言ってもらえるような映画に携われていることがとても嬉しく、来年もいい映画を作ろうと思いました。 求められる素養は、まず映画やテレビが好きであること。そしてこの製作パートの仕事を楽しいと思えることです。私が20年近く携わってきた『釣りバカ日誌シリーズ』は長いようで短く、苦しいようで楽しいシリーズ映画でしたが、良いチームにすることが宿命のようでもありました。
Q.最後に岩田さんが考える、いい映画のモノづくりとはなんでしょうか。
岩田 均(いわたひとし)
松竹撮影所 製作
1994年大船撮影所入社、1996年松竹入社。『この子を残して』で助監督として初めてカチンコを打ち、その後製作部へ異動。『釣りバカ日誌シリーズ』22本全作品を担当し『復活の朝』、『東京家族』、『愛を積むひと』でも活躍。