映画女優 高峰秀子(前半)
高峰秀子。1979(昭和55)年9月15日に公開され、この映画が世論を動かし、犯罪被害者給付金制度の成立に貢献したとも言われる、木下惠介監督作品『衝動殺人 息子よ』。この作品の宣伝キャンページの際、「私にとって最後の出演映画よ」という本人の言葉を耳にした人も多いはずです。当時55歳で、5歳のときに子役として映画界に入って、まる50年でした。
『衝動殺人 息子よ』(監督・木下惠介)©️松竹
著書の「まいまいつぶろ」で、「私の父の友人が松竹にいた事から、いたずら半分に、母に手をひかれて初めて活動やののれんをくぐったのだった。(中略)眼鏡を光らせた、こわそうな人や、ゴルフズボンをはいたたいこ腹の人(あとで判ったけど彼が野村芳亭監督)などが、私たちの前を二、三度ウロついただけでその日はお終いだったが、どういう風の吹きまわしか、私が選ばれてしまったのであった」。1929(昭和4)年、5歳の子役、高峰秀子の誕生です。ちなみに本名は平山英子で、養母が女活弁士として名乗っていた芸名をそのままつけて高峰秀子を名乗りました。
デビュー作の『母』(監督/野村芳亭、主演/川田芳子)は、続篇が作られるほどの大ヒット
を記録しました。そして、雑誌「映画評論」で、高峰秀子の子役は絶賛されました。この作品の後、『大東京の一角』(監督/五所平之助)、『愛よ人類と共にあれ』(監督/島津保次郎)、
『東京の合唱』(監督/小津安二郎)などに続けて出演し、人気子役となりました。
『東京の合唱』(監督・小津安二郎)©️松竹
子役時代の高峰秀子は、目鼻立ちがはっきりしていて、とても利口で可愛く、そして品があったといわれています。そして、高峰秀子の子役は女の子だけではなく、髪の毛を短くした男の子も演じました。当時の映画はまだサイレントで、台詞を言うことがあっても、声が聞こえません。例えば『麗人』(監督/島津保次郎)の役名は、岩夫でした。そして、蒲田撮影所では、高峰秀子は〈秀坊〉と呼ばれていました。
著書の「わたしの渡世日記」の中で、「私の主演映画である『頬を寄すれば』が完成された当時、アメリカの名子役といわれたシャーリー・テンプルの映画が日本でも大人気で、私とシャーリー・テンプルの人気は真っ二つに割れ、口さがない世間は二人の優劣を競って論じた」と書いています。
『頬を寄すれば』(監督・島津保次郎)©️松竹
1936(昭和11)年、松竹は撮影所を蒲田から東京に移しますが、12歳になった高峰秀子は、子役から娘役への転換期を迎えていました。同年には、五所監督の『花籠の歌』、『新道』の2本の映画で、田中絹代演じるヒロインの妹役という大役に抜擢され、田中絹代からは実の妹のように可愛がられました。
映画女優 高峰秀子(後半)
1936年頃、高峰秀子は、その頃熱を上げていた宝塚歌劇団入りを考え、水谷八重子の紹介で宝塚音楽学校校長の小林一三に会っていました。ですが、五所監督の『花籠の歌』『新道』の撮影に追われ、宝塚入りはうやむやのうちに立ち消えました。
当時松竹撮影所では明治製菓とタイアップしていました。そして五所監督の知り合いで、明治製菓・宣伝係の藤本青年(後の藤本真澄プロデューサー)が出入りしていて、高峰秀子も毎月チョコレートやキャラメルを手に持って、ニッコリ笑っている明治の宣伝写真を撮っていました。
その藤本青年がP.C.L.映画製作所(後の東宝映画)企画課に転職して、高峰秀子に引き抜きを働きかけました。「女学校へ進学する」ことを条件に、高峰秀子は、P.C.L.映画製作所に移籍したのです。
東宝、新東宝で、大人の女優となった高峰秀子は、1951(昭和26)年、日本初の総天然色映画『カルメン故郷に帰る』に主演し、この作品で初めて木下惠介監督とコンビを組みます。
『カルメン故郷に帰る』(監督・木下惠介)©️松竹
戦前、松竹を去った高峰秀子は、松竹一筋だった木下惠介の映画に出演するチャンスがありませんでした。木下監督から、「あなたの脚本が出来たので読んでみてください」という
電話がかかってきました。劇場の改築で6日間の休みができ、それを利用して故郷に錦を飾ろうと北軽井沢へ帰郷したリリー・カルメンというストリッパーの物語の主人公役を、木下監督は用意したのです。
高峰秀子は、木下惠介監督をしばしば〈天才〉と呼んでいます。著書の「まいまいつぶろ」に収められた「『二十四の瞳』小豆島ロケ先にて」には、「オッカナイ。一言にしていえる私の木下評である。私は天才というものを、木下先生しか見たことがないが、たしかに天才はオッカナイである。下手まごつくと一刀両断切って捨てられそうで、手も足も出ないのである」とあり、〈天才〉ぶりを目の当たりにしたのです。
『カルメン純情す』(監督・木下惠介)©️松竹
『二十四の瞳』(監督・木下惠介)©️松竹
高峰秀子は、最後の出演映画『衝動殺人 息子よ』(1979年公開)まで、12本の木下作品に出演しました。
映画出演に“辞表を出した”後、高峰秀子が本領を発揮したのはエッセイの世界でした。「巴里ひとりある記」「まいまいつぶろ」そして「わたしの渡世日記」で、エッセイストとしての第二の人生を歩み始めたのです。 高峰秀子は、2010(平成22)年12月28日の夜明け前、亡くなりました。残り数日で新しい年を迎えようとする静かな東京の空のもと、昭和の大女優が86歳の人生を終えました。
映画出演に“辞表を出した”後、高峰秀子が本領を発揮したのはエッセイの世界でした。「巴里ひとりある記」「まいまいつぶろ」そして「わたしの渡世日記」で、エッセイストとしての第二の人生を歩み始めたのです。 高峰秀子は、2010(平成22)年12月28日の夜明け前、亡くなりました。残り数日で新しい年を迎えようとする静かな東京の空のもと、昭和の大女優が86歳の人生を終えました。
次回・Part8 〈木下惠介の世界〉