1923年
メロドラマの代表作『母』の大ヒット
蒲田撮影所は、美術監督に斬新な感覚と意識を持つ若い美術家たちを迎えるなど、映画製作のあり方を積極的に改革しました。 ですが、当時ここで最もヒットの多かった監督は新派的傾向を代表する野村芳亭でした。京都の劇場画家の出身で、大衆的な芝居づくりのコツを心得ていた彼は、松竹蒲田で監督になると、時代劇に女性メロドラマにと多くのヒット作を出して、撮影所の指導的な立場となり、所長を兼ねる時期もありました。 彼の方針は急激な革新にブレーキをかけ、「理想は高く、手は低く」一歩前進、半歩後退の漸進主義であり、なかでも大当たりした作品は、1923(大正12)年の『母』でした。
可哀そうな少女を中心に、当時の蒲田撮影所の三大スター女優(川田芳子、栗島すみ子、五月信子)に、それぞれ“生みの母”“育ての母”“義理の母”を演じさせるというところに、この映画の大ヒットの要因があったとされます。ひとりの娘に対して三人の母親が、それぞれに愛情をそそぎ犠牲を払うというストーリーは、明治、大正期の女性向きの通俗メロドラマでは最も人気のあるパターンのひとつだったのです。
1924年
蒲田撮影所長 城戸四郎
1920年代に松竹蒲田撮影所は現代劇映画にひとつの新しいスタイルをうちたてますが、それをプロデューサーとして指導したのは城戸四郎でした。 城戸は1922(大正11)年、松竹キネマに入社し、映画担当取締役に抜擢され、そして1924(大正13)年から蒲田撮影所長になります。
城戸は「ハンカチ持参で、映画館に悲劇を見に行くのもよいが、すべての映画を、そういう泣きたい客のために作るのは、面白くない。娯楽とは、明るい健康なものでなければならず、社会の皮肉や矛盾をさがせば、おもしろおかしく笑いながら、人生勉強ができる」と主張しました。 城戸が就任以来最も力を注いだのが脚本部の充実でした。 所長自身の椅子を脚本部室に置いて、ひまさえあれば部員と映画論をたたかわせていました。そして自らも赤穂春雄などの筆名で何本かのシナリオを書いていました。その積極的な動きが、蒲田映画に新しい風を吹き込んでいったのです。