映画のジャンルの一つとして「喜劇」があります。映画の誕生とともに、ギャグをふんだんに活用した映画が撮影され、短篇喜劇のジャンルを形成したとされます。「喜劇」は時代とともに、道化芝居とも表現されるスラップスティック・コメディや、チャップリンが試みた人間性を追い求める本格的長篇喜劇の完成へとつながり、さらにナンセンス喜劇や風俗喜劇とともに、無声時代喜劇の黄金期を迎えます。
そしてトーキー時代に入って、松竹では、斎藤寅次郎監督のナンセンス喜劇や、蒲田撮影所得意の小市民喜劇が作られ、やがて風刺喜劇や人情喜劇などが公開されるようになり、『男はつらいよ』『釣りバカ日誌』などの作品へと受け継がれていきます。
今回は、「喜劇」というジャンルを超えて、自ら製作する作品を「怒劇」とした森﨑東監督、「重喜劇」とした今村昌平監督を取り上げます。
そしてトーキー時代に入って、松竹では、斎藤寅次郎監督のナンセンス喜劇や、蒲田撮影所得意の小市民喜劇が作られ、やがて風刺喜劇や人情喜劇などが公開されるようになり、『男はつらいよ』『釣りバカ日誌』などの作品へと受け継がれていきます。
今回は、「喜劇」というジャンルを超えて、自ら製作する作品を「怒劇」とした森﨑東監督、「重喜劇」とした今村昌平監督を取り上げます。
監督・森﨑東「怒劇」(前半)
森﨑東は1927(昭和2)年、長崎県島原市に生まれました。京都大学法学部を卒業後、1956(昭和31)年、松竹京都撮影所に入社します。
1965(昭和40)年、大船撮影所に移り、野村芳太郎監督や山田洋次監督の助監督に付き、1969年、『男はつらいよ』第1作の脚本を山田監督とともに執筆します。そして同年、42歳での初監督作品は泥臭い人情ドラマ、『喜劇・女は度胸』でした。山田洋次の原案で、東京・羽田を舞台に繰り広げられる庶民派喜劇です。当時22歳で松竹歌劇団を退団した倍賞美津子の第1回主演作品でもあり、後の作品で倍賞美津子は、森﨑作品には欠かせない女優の一人となります。
『喜劇・女は度胸』©️松竹
翌年には、シリーズ3作目になる『男はつらいよ フーテンの寅』を監督します。
柴又に帰って来た寅さんを待ち受けていたのは見合い話。相手は春川ますみ演じる川千屋の仲居で寅さんの昔馴染み。亭主持ちということで大騒動に。柴又を後にした寅さんは旅の空へ。旅先の寅さんの姿が、旅を日常とした渡世人として活き活きと描かれていて、森﨑版寅さんとも言えます。
柴又に帰って来た寅さんを待ち受けていたのは見合い話。相手は春川ますみ演じる川千屋の仲居で寅さんの昔馴染み。亭主持ちということで大騒動に。柴又を後にした寅さんは旅の空へ。旅先の寅さんの姿が、旅を日常とした渡世人として活き活きと描かれていて、森﨑版寅さんとも言えます。
『男はつらいよ フーテンの寅』©️松竹
この後、『喜劇・女生きてます』(1971年)『喜劇・女は男のふるさとヨ』(1971年)『喜劇・女売り出します』(1972年)『女生きてます 盛り場渡り鳥』(1972年)など女シリーズを量産します。プログラムピクチャーでありながら、強い自己主張がほとばしっていました。森繁久彌が営む新宿芸能社の踊り子たちを描きながら、社会から虐げられている庶民の心持ちを代弁して、「喜劇ではなく怒劇」と自ら称して作り続け、片方で、疑似家族の生き様を通して、人と人との繋がりを基本とする松竹伝統の家族という主題を意識させるものになっています。
1974(昭和49)年フリーになり、『黒木太郎の愛と冒険』(1977年)を発表するも不遇の時代が続きましたが、1983(昭和58)年に松竹で撮った夏目雅子主演の『時代屋の女房』が評判となりました。原作は村松友視の書いた直木賞受賞作ですが、森﨑監督の演出で、人間っぽく、人懐っこい、コクのある人情喜劇に仕上がっていて、主役を演じる夏目雅子の可憐さとミステリアスさは、2年後の早逝で伝説化しました。
『時代屋の女房』©️松竹
そして独立プロ作品で、原発、沖縄、外国人労働者など様々な主題を盛り込んだ『生きてるうちが花なのよ死んだらそれまでよ党宣言』(1985年)を監督。この作品で倍賞美津子は、各映画賞の主演女優賞を獲得しています。
1987(昭和62)年には松竹で、『塀の中の懲りない面々』を監督。原作は、刑務所を舞台に、一筋縄ではいかない懲役囚たちの日常を描いた安部譲二の自伝的小説です。「塀の中」とは刑務所を指し、「懲りない面々」とは自由が制限される刑務所服役経験があるにもかかわらず、入出所を繰り返す累犯罪者達のことを指しています。刑務所という限定された空間の中で、ここまで役者が動き、走り回る、森﨑演出ならではの“怒”活劇になっています。
『塀の中の懲りない面々』©️松竹
『塀の中の懲りない面々』の後は、『女咲かせます』(1987年)、『夢見通りの人々』(1989年)、『釣りバカ日誌スペシャル』(1994年)、そして1996年に、三國連太郎、佐藤浩市親子共演で『美味しんぼ』を監督しています。
『美味しんぼ』©️松竹
その後、2004(平成16)年の『ニワトリはハダシだ』では、芸術選奨文部科学大臣賞を受賞。さらに認知症の母親の介護を明るくつづった2013(平成25)年公開の『ペコロスの母に会いに行く』が、キネマ旬報ベストテンの1位に選ばれました。そしてこれが最後の作品となりました。
監督・今村昌平「重喜劇」(後半)
今村昌平は、1926(大正15)年東京の大塚に生まれました。父親は医者で、上流階級の子弟の秀才が集まるエリート校で学んでいました。父親に連れられて寄席や映画にはよく通っていたそうで、文化的には恵まれた育ちだったようです。
そして小学校時代に、後の人生に大きな影響を与える教師に出会っています。その教師は、君たち都会の人間は結局、田舎の人間に負けるのだ、といった意味のことをしきりに口にしていたといいます。
1951(昭和26)年、今村は、早稲田大学第一文学部を卒業し、難関を突破して松竹大船撮影所に入社しました。1951年は、松竹ではわが国最初の色彩劇映画『カルメン故郷に帰る』が公開され、映画界では4月29日の(昭和)天皇誕生日から5月5日の子供の日に至る連続休日がこの年から始まり、この週間を「ゴールデン・ウィーク」の名で呼ぶようになった年です。
撮影所に入って最初に助監督として作品についたのが小津安二郎監督の『麥秋』(1951年)でした。小津作品には次の『お茶漬の味』(1952年)、『東京物語』(1953年)と三作品につきました。この頃小津作品は一年に一作品でしたので、他の監督の助手もたくさん務めて、とくに野村芳太郎監督作品にはその監督第一作『鳩』(1952年)から、ずっと参加しました。
『麥秋』©️松竹
1954(昭和29)年、日活の製作再開とともに日活に引き抜かれます。そして間もなく同じく松竹から引き抜かれた川島雄三監督のチーフ助監督になり、しばしば脚本も合作するようになりました。川島監督とは『幕末太陽傳』(1957年)、また浦山桐郎監督の『キューポラのある街』(1962年)の脚本も書いています。今村昌平が日活で監督になって第一作の『盗まれた欲情』を発表したのは、1958(昭和33)年でした。その後、『西銀座駅前』(1958年)、『果しなき欲望』(1958年)、『にあんちゃん』(1959年)、『豚と軍艦』(1961年)、『にっぽん昆虫記』(1963年)、『赤い殺意』(1964年)、そして独立した今村プロダクションの『神々の深き欲望』(1968年)と撮り続け、キネマ旬報ベストテンを始めとする映画各賞に常に選ばれる監督になりました。しかしながら、その後は、『神々の~』の約2000万円の借金を抱え、資金難のためおよそ10年間は主にドキュメンタリー作品などを手掛けることになります。
この苦難の状況でも今村は、1975(昭和50)年、映画人育成のために横浜放送専門学院(現・日本映画大学)を創立し、校長に就任しています。
この苦難の状況でも今村は、1975(昭和50)年、映画人育成のために横浜放送専門学院(現・日本映画大学)を創立し、校長に就任しています。
漸く1979(昭和54)年、9年ぶりの劇映画となる『復讐するは我にあり』を松竹で公開しました。この作品の原作は、佐木隆三の直木賞受賞作ですが、映画化をめぐっては黒木和雄、深作欣二、藤田敏八らと映画化権取得を争いました。全国で詐欺、窃盗を重ねた上に5人を殺害し、その犯行歴から“黒い金メダリスト”と揶揄された昭和の大悪人・西口彰をモデルに描く実録映画。緒形拳、小川真由美、三國連太郎などの今村映画の常連俳優による凄まじい演技の応酬は、アカデミー作品賞受賞作品『パラサイト 半地下の家族』のポン・ ジュノ監督も影響を受けたと公言する傑作です。この作品の成功により、低迷期を脱し、映画監督として復活を遂げました。ちなみにこの作品で初めて今村組に参加した倍賞美津子は、この後の今村監督作品全てに出演することになります。
『復讐するは我にあり』©️松竹
『復讐するは我にあり』に引き続いて松竹では、『ええじゃないか』(1981年)を製作公開。江戸時代末期に発生したええじゃないか騒動や百姓一揆など騒然とした世相を背景に、江戸両国界隈に生きた下層庶民のバイタリティ溢れる生活を描いていて、今村監督の初の時代劇でもありました。
『ええじゃないか』©️松竹
その後東映で『楢山節考』(1983年)、『女衒 ZEGEN』(1987年)『黒い雨』(1989年)を製作公開。
そして1997(平成9)年に『うなぎ』を松竹で製作公開します。原作は、吉村昭の小説「闇にひらめく」。人間不信に陥り、ペットのうなぎにだけ心を開く仮出所中の中年男と、自殺を図ったところを彼に助けられた女性との心の交流を軸に描いた人間ドラマです。この作品では、『楢山節考』に続いて二度目のカンヌ国際映画祭のパルム・ドールを受賞しました。パルム・ドールの最多受賞記録は2回であり、フランシス・フォード・コッポラ等と肩を並べました。
そして1997(平成9)年に『うなぎ』を松竹で製作公開します。原作は、吉村昭の小説「闇にひらめく」。人間不信に陥り、ペットのうなぎにだけ心を開く仮出所中の中年男と、自殺を図ったところを彼に助けられた女性との心の交流を軸に描いた人間ドラマです。この作品では、『楢山節考』に続いて二度目のカンヌ国際映画祭のパルム・ドールを受賞しました。パルム・ドールの最多受賞記録は2回であり、フランシス・フォード・コッポラ等と肩を並べました。
『うなぎ』©️松竹
今村監督は自作を象徴する表現として「重喜劇」という言葉を使っています。軽喜劇や軽演劇をもじった今村自身の造語です。曰く「軽いばかりが笑いではない。もっと人間の真実を描いてずしりと腹に響く重い笑いもあるはずだと私は考え始めていた」(「映画は狂気の旅である」2004年・日本経済新聞出版)。自分の作る喜劇には「人間の命がけ」も詰まっているのだ、と聞えます。
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