映画・アニメの世界

松竹の映画製作の歴史 Part15 〈松竹ヌーベル・バーグ〉

1959年

城戸社長が助監督の大島渚を抜擢

1959(昭和34)年、城戸社長は大船撮影所でまだ中堅級の助監督であった大島渚を抜擢して、一本の小品を監督させました。大船の助監督の有志たちが発行するシナリオ集に掲載されていた、シナリオ「鳩を売る少年」が気に入ったからです。
1950年代半ばから、東映のチャンバラ映画が、つづいて日活の太陽族映画や石原裕次郎のアクションものが大当たりするようになり、松竹の得意の路線は興行的に下降線をたどるようになっていました。
城戸はそこで、他社に対抗して、気鋭の若い監督の起用を考えたのですが、やわらかな情感やユーモアのある数多くの名作を製作してきた城戸としては、東映や日活の映画の無茶苦茶なまでに荒っぽい威勢の良さに追随する気はありませんでした。

1960年

大島監督『青春残酷物語』がヒット

「鳩を売る少年」は会社の意向で『愛と希望の街』と改題して大島渚第1回作品として完成しましたが、小品として二番館でひっそりと公開されました。にもかかわらず少数の批評家が大島監督に注目し、熱心に支持をした結果、大島は監督2作目を手掛けるチャンスを得て、『青春残酷物語』(1960年)を製作、小規模ながら社会的なセンセーショナルを巻き起こし、ヒットしました。

『青春残酷物語』『ろくでなし』『乾いた湖』のスピードポスター©️松竹

大島渚とほぼ同年代だった吉田喜重や篠田正浩は、大島渚が華々しくデビューすると、積極的に会社に働きかけ、『青春残酷物語』と前後して、それぞれの作品を発表しました。『ろくでなし』(監督・吉田喜重)や『乾いた湖』(監督・篠田正浩)は、いずれも松竹の映画の情緒的な作風とは違い、気負った問題提起の凛々しさがあって、マスコミの注目を浴びました。
松竹は、大島渚、篠田正浩や吉田喜重たちの演出・作風が、当時ヌーベル・バーグ(新しい波)と呼ばれたフランスの若手監督(アラン・レネやゴダール、トリュフォー)たちの手法に似ていたことから、“松竹ヌーベル・バーグ”として売り出しました。

 
『日本の夜と霧』(監督・大島渚)©️松竹
『秋津温泉』(監督・吉田喜重)©️松竹
『恋の片道切符』(監督・篠田正浩)©️松竹

大島監督が第4作目に製作した『日本の夜と霧』は、安保闘争がその頂点から挫折へ急転する中で、とりわけ学生運動家、既成前衛組織を批判、総括するという告発劇でしたが、そこに込められた大島渚の政治的メッセージは一般観客には届かず、興行的にも不入り且つ不評で、公開三日で打ち切り、上映中止となりました。大島渚は松竹と対立、脚本家だった石堂淑朗や田村孟などとともに松竹を辞めて独立プロを起こしました。