1896年
日本における初の映画上映
1897年
大阪で最初の興行が行われる
続いて翌1897(明治30)年2月、フランスから大きなスクリーンに映像を映写できるシネマトグラフが輸入され、大阪で最初の興行が行われました。 2年前の1895(明治28)年<松竹創業の年>にオーギュストとルイのリュミエール兄弟が発明したもので、リュミエールの会社の技術者が、京都で歌舞伎俳優の所作事などを撮ったとされ、これが日本で行われた最初の映画撮影だったとされています。
1898年
日本人による初の映画撮影
日本人による映画撮影としては、1898(明治31)年の浅野四郎による短編映画『化け地蔵』『死人の蘇生』に始まります。翌1899(明治32)年には『芸者の手踊り』が東京歌舞伎座で公開されました。これは小西商店(後の小西六写真工業、現コニカミノルタ)の浅野四郎が実写撮影した、音を持たない無声サイレント映画ですが、日本率先活動写真家の駒田好洋という説明者(日本独自の“活動弁士”)が登場しています。
1899年
柴田常吉撮影、九世市川團十郎・五世尾上菊五郎出演『紅葉狩(もみじがり)』
1919年
松竹合名会社は本格的に映画事業に進出
1919(大正8)年3月、演劇興行会社であった松竹合名社は、白井信太郎らを欧米の活動写真界の現状視察に派遣しました。ちなみに白井信太郎は、白井松次郎・大谷竹次郎兄弟の末弟です。 白井らは、アメリカで当時最大の撮影所を持っていたユニバーサル社を視察し、「ユニバーサルなどは撮影所がそのまま一つの都市になっていて、大規模な不動産会社を兼ねている、また製作フィルムのほとんどは外国に輸出されるから、本格的に取り組めば世界的な大事業になる」と大谷竹次郎社長に報告しました。かねてから映画事業を考えていた大谷社長は、海外の活動写真の状況を聞き、本格的に映画界に進出することを決意します。
1920年
松竹キネマ合名社を創立
当時持ち込まれたアメリカン・システムの一つに、「ディレクター・システム」があります。ハリウッドでは、初めに「スター・システム(主演俳優主義)」があり、次いで演出者が中心となる「ディレクター・システム」になったとされています。その後プロデューサーが中心となる「プロデューサー・システム」が成立することになります。 「ディレクター・システム」は、監督という存在を頂点にして体系化された組織を編成し、製作を進めるやり方です。この後、松竹の映画製作では、この「ディレクター・システム」を、一つの特徴とすることになります。
次回・Part2 〈日本の撮影所と松竹蒲田撮影所の開所〉
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