いつもはじまりは、人の想い~〈松竹の映画製作のDNA〉とは…
かつて、松竹映画の新聞広告の中には、必ずと言ってよいほど、“明るく、楽しい松竹映画”というキャッチフレーズがありました。これは、まもなく映画製作100周年を迎えようとする松竹映画の背骨、いわばDNAのようなものとして、引き継がれています。 その年代を超えて流れるDNAの源は、松竹映画の製作の歴史にありました。
蒲田撮影所正門©️松竹
松竹の映画製作は1920(大正9)年、松竹蒲田撮影所に始まります。蒲田撮影所第1作は、短編映画『島の女』でした。
そして蒲田撮影所では、1923(大正12)年関東大震災の翌年、1924(大正13)年に撮影所長に就任した城戸四郎を中心として、〈蒲田調〉と呼ばれる「映画製作の心得とテーマ」が生まれていくことになります。
城戸は所長という立場ながら、自身が若かったため、所長室だけでなく脚本部にも机を置き、そこを若い監督や脚本家たちのたまり場としていました。映画のスタッフは皆社員という時代、松竹を代表する牛原虚彦、島津保次郎、斎藤寅次郎、五所平之助、清水宏、そして小津安二郎らがその中にいました。彼らが議論しながら映画を作っていく中で、自然と一定の松竹“らしい“方向が出されていったのです。
そして蒲田撮影所では、1923(大正12)年関東大震災の翌年、1924(大正13)年に撮影所長に就任した城戸四郎を中心として、〈蒲田調〉と呼ばれる「映画製作の心得とテーマ」が生まれていくことになります。
城戸は所長という立場ながら、自身が若かったため、所長室だけでなく脚本部にも机を置き、そこを若い監督や脚本家たちのたまり場としていました。映画のスタッフは皆社員という時代、松竹を代表する牛原虚彦、島津保次郎、斎藤寅次郎、五所平之助、清水宏、そして小津安二郎らがその中にいました。彼らが議論しながら映画を作っていく中で、自然と一定の松竹“らしい“方向が出されていったのです。
それまでの映画のテーマは、舞台で描かれた悲劇的でお涙頂戴的な題材を元にすることが多く、一つの道徳にとらわれた不自然なものが多かったようです。多少の真理には触れているけれど、それは本来の人間ではないだろう、という議論になり、「もっと自分たちの身近なところから題材を探してきて、リアルにやろうじゃないか」としたのが、第一の方針となりました。
城戸所長は、「日本映画伝―映画製作者の記録」(文藝春秋・1955年刊)の中で、〈蒲田調〉のことを述べています。「蒲田調なるものは、人間社会に起こる身近な出来ごとを通して、その中に人間の真実というものを直視することである。(中略)映画の基本は救いでなければならない。見た人間に失望を与えるようなことをしてはいけない。これが、いわゆる蒲田調の基本線だ。」
人間の真実(人生)を、松竹としては、あたたかく希望を持った明るさで見ようとすることが、〈蒲田調〉及びそれを引き継いだ〈松竹大船調〉の映画製作のDNAであり、冒頭のキャッチフレーズにつながっているのです。
城戸所長は、「日本映画伝―映画製作者の記録」(文藝春秋・1955年刊)の中で、〈蒲田調〉のことを述べています。「蒲田調なるものは、人間社会に起こる身近な出来ごとを通して、その中に人間の真実というものを直視することである。(中略)映画の基本は救いでなければならない。見た人間に失望を与えるようなことをしてはいけない。これが、いわゆる蒲田調の基本線だ。」
人間の真実(人生)を、松竹としては、あたたかく希望を持った明るさで見ようとすることが、〈蒲田調〉及びそれを引き継いだ〈松竹大船調〉の映画製作のDNAであり、冒頭のキャッチフレーズにつながっているのです。
製作打合せ風景。左より4番目が城戸四郎、その左が五所平之助©️松竹